合理的な判断の選択は、その人間の価値基準に依存する。
合理的な判断。
それが社会で求められることは多い。
だが、その合理的な判断も時に食い違っている。
それが何故おこるのか。
僕はそれが”個人の価値基準”によって変わるからだと思う。
例えば、Aの場所に向かうとして、
「タイムイズマネー。高くても交通機関を利用する。」という人間と、
「たまには歩くのも悪くない。もしかしたら新しい発見があるかもしれないから歩いていこう。」という人間がいれば、
前者から後者に対して、「時間という価値あるものを犠牲にして、歩くという選択をするのはありえない」と思えば”合理性に欠ける”という意見を持つ可能性は高い。
後者からしても前者は、「将来役立つかもしれない発見の機会を逃している。そんなにお金をかけてまで行く距離でも無い。」と思えば、それも”合理性に欠ける”となるかもしれない。
何が言いたいのかと言えば、”合理的な判断”と思い込んで人を評価してしまう前に、その相手がどんな価値基準でその判断をしたのかを探らなければ、自分自身が合理性に欠けるということだ。
なにに価値を置いているかで、その人間が思う合理的な判断も、もちろん変化する。
例え目的地が同じだとしても、歩くルートは人それぞれということなんだ。
もちろん、何も考えずに直感で判断を下す人間もいる。それはそれで経験に基づくものならば、時に合理的な判断より素晴らしい判断になることもある。
合理的な判断が、どれほど合理的でどれほどの正確性を持つのか。
それは、結局のところ未来で結果論として語る他ない。
その判断をした時点で、それが正しかったのかどうかなんて分からないのだから。
僕ら人類が”正しい合理的判断”を行うようになるには、まずタイムマシーンを作らなければならないという途方もない難題を越えなければいけないのだ。
なんせ、どの判断が正しくて、どの判断が間違っていたのかは、未来と過去を行き来できないと証明することは不可能だから。
なんてことを電車に乗りながら考えていた。