本屋には椅子があったらいいのにな。
きっと立ち読み防止なんだろう。
最近の本屋には椅子が置かれていない。
ラーメン屋にはナプキンではなくティッシュ(正確にはティシュー)があった方がいいし、
試食コーナーは買わなきゃいけないという責任感を無くして欲しいから、人がいない方がいい。
多分今から書くことは文章として支離滅裂だと思う。
なぜかと言えば本屋を歩きながら書いているから。
入った瞬間から、今売れている本が紹介されている。
流行になど乗りたくないと思いながらも、その表紙に吸い寄せられる。
それほどまでに表紙は魅力的で、考え抜かれて作られている。
これだけでもワクワクしてくる。
ここには知的好奇心を満たすものがあまりに多い。
僕は遊園地であまりワクワクしたことは無いが、きっと普通の子供が遊園地で感じるワクワク感はこんなものなんだろう。
いつも残念に思うのは、選ばなきゃ行けないことだ。時間的にも体力的にも興味あるもの全てを見尽くすことが出来ない。
いつもいつも心残り。
「あのアトラクションに乗りたかったなぁ」の気持ちを、本に対して向けている。
そうだ、気になったタイトルを少しあげてみよう。
- 私は私のままで生きることにした
- 読みたいことを書けばいい。
- 明日死ぬかもよ?
- アンドロイドは電気羊の夢を見るか
- 残念な生き物図鑑
- AIvs教科書が読めない子どもたち
- 怖い間取り
- アリエナクナイ科学ノ教科書
- 泣きたくなるほど嬉しい日々に
などなど。
どれもこれも気になって仕方がない。
よく本好きは、自分の本棚を見られるのが恥ずかしいという。
それは多分、自分の心の内が自然と選ぶ本に現れているからなんだろう。
「気になった本を選んで持ってきてください」って本屋さんで占い師が言ったら要注意だ。多分、あなたの説明書代わりに本の表紙から中身を言い当てられる。
なんて妄想してみても、そんなことは起こらないだろうから気にしなくていいと思う。
いろいろな自己啓発本やら、ビジネス書を読んだけれども、書いてあることがみなバラバラで、お互いに好きなやつを持ち寄ったら永遠に議論が続きそうだ。
あれらは誰かの正解を綴っているものだから、誰かにとっての正解で、誰かにとっての間違い。
今も刻々と新しい正解が産み出されて、同時に同じだけの間違いが作られるている。
時代が変わり、状況が変わり、人の持つ知識や物が変わっているのだから当然のことだ。
不変のものなんて数えるくらいしかない。
いずれ皆死ぬことと(今のところ)、人は皆自分が見ている(経験してきた)世界が全てだということくらい。
何が言いたいのかと言えば、まぁ本なんてのは自分の都合のいいものだけ頭に入れておけばいいってことさ。
1冊を信者になって崇め始めたら、本の数だけ聖戦が起きちゃうからね。
あ、そういや最近は本だけじゃなくてSNSも凄い情報量になってきた。
「あっちの凄い人はこんなこと言ってるけど、こっちの凄い人はこう言ってる…」とキリがない。
神様だって戦争するくらいだもの仕方ないのかもしれない。(なんてあいつら人の形なんだろうね。神様って都合がいい。)
キリがないので、これも好きな人の好きな言葉だけ聞いときゃいい。
SNSとかだと、それがコミュニティを作って段々と様々な集合体が出来てきているみたい。ネズミ講っぽいのもあるからどうかとは思うけど、本人たちが幸せならそれでいいのかもね。
映画「億男」でも、ネズミ講をしている人物が、「幸せに値段をつけてやってるだけだ!」って言ってるし、それで幸せが買えたと思うなら、それはそれで幸せなのかも。
まぁ資本主義である以上、大きく見れば皆ネズミ講のどこかに属していると言っても間違いではないしね…
おっと、面白そうなビジネス書を見つけた。
多分これを見ても僕が欲しい具体的な答えは載っていないだろうけど。
色々と書いていたらもう6時だ。
結局、僕の話にも書くことにもオチはない。
現在進行形だから!とか言って逃げてみてもいいのかな。
とりあえず、本を読みに行こう。まだ1冊も読めていないから。
バイバイ。