変わった僕の、変なブログ。

僕の考えとかアイデアとか面白かった本とか新しい商品とか、覚えておきたい、残しておきたいものを書いてます。

オカルトはいつも可能性を孕んでいる。

 

やりすぎコージーの都市伝説や、

超常現象Xファイルなどのオカルト系番組は結構好きでよく見ている。

他にも心霊系番組なども好きだ。

 

時々自分がやってるラジオでも、科学的にオカルトの仮説を立てる話題で盛り上がる。

そういう真面目に夢を見るような感覚が好きでたまらない。

 

もちろんテレビ番組では、ヤラセと言うか、作られた物も多いのでそこら辺は少し残念な気持ちになる。

ただ、中には本物っぽいものも混ざっていて、それを見ると好奇心が刺激される。まだ人類が解明出来ていない何かのヒントがそこにある気がしてならない。

 

よく「宇宙人はいるのか?」という話題は時々耳にするけど、そもそも「何故居ないと思うのか?」と逆に問い掛けたいくらいには居ると思っている。

だっていないと思うことがおこがましいじゃないか。

 

宇宙には現時点で2兆個という馬鹿げた数の銀河があり、その中に地球と似た環境の星だけを探してもそれなりの数があるだろう。

そもそも似た環境でないと生き物が進化出来ないなどという事も証明はされていない。

ヒ素の中でも生きられる生き物がいるくらいだ。

酸素ではなく別のものをエネルギーとして使い、生きている生物がいても何らおかしくはない。

 

そう考えると、宇宙人というか宇宙生物は少なくとも地球だけにしか居ないというのはおかしな話だ。あまりに自分達を神格化し過ぎている。

そこまで人間は素晴らしい知性体では無いと思う。まだ人類が誕生してさほどの年月も経っていないのだし。

 

文明の段階で言えば、満足に星間移動もままならない。やっとスタートを切った程度じゃないだろうか。

 

近年、重力波を捉えることが出来たことにより、次元の存在が確定した。少し前まではオカルトの世界の話だっただろう。次元の話を始めたら、頭のおかしなやつか中二病などと言われるレベルだった。

そんなものが実在していたと証明された。

 

きっとここからまた常識が塗り替えられる。

天動説が地動説に変わっていったように。

未だにUFOや、幽霊、その他諸々の超常現象も同じように存在することが常識になっていく時代が来ると思う。

 

存在を否定することは簡単に出来るが、証明することは出来ない。

「絶対に存在しない」という人間はそもそも、絶対に信用ならない。そして可能性も無い。

「ある」前提で考えなければ何一つ見つけることなど出来ないからだ。

 

僕ら人類の発見は、常に可能性という闇の中を、光を求めて彷徨い続けるようなもの。

可能性を選択することはしても、自分で消してしまうのは勿体ない。

もっと自由に物事を疑い、もっと自由に考えてみてはどうだろうか?

 

Newtonなどの雑誌を見ると、僕らが夢のように思っていた技術や発見が、かなり多く発表されていたりする。

あなたの常識は、いつまで常識だったものなのか。

この先もっと早く目まぐるしく変化していくだろうから、置いてきぼりにならないようにね。

 

是非とも仮説を立てて、オカルトを真面目に楽しんでみてはどうだろうか。

 

男女によってデートの意味は違う。

 

某バラエティ番組を見ていたら、面白い話題が出ていた。

どうやらその話によると、”デート”という言葉に対する意味合いに男女によって差があるらしい。

 

男性側が「デートをしよう!」と誘った時、それは案外気楽な気持ちで、一緒に食事でも行きたいなぁくらいの意味合いであることがほとんど。

 

でも、女性側は「デートをしよう!」と言われた時に、男女の関係前提の誘いと捉えていることが多いらしい。

だから気軽に「行きます!」とは言えないんだとか。

 

同じ言葉ではあっても、そこに含まれている意味合いや想いに差があるだけで、すれ違ってしまっているのがなんだか勿体ない。

 

きっとこのようなケースは少なからずあると思うし、それは男女の価値観の違いなのかもしれないとも思ったり。

 

このすれ違いは、建前を重んじてしまう日本人の特性も少なからず加味されて、余計にややこしくなっている気もする。

簡単に言うと、本音を喋れないせいで伝えたいことが伝わらずに、お互いが勘違いしたままになっているということだ。

 

ちなみに、先程の”デート”について男性側が食事を気軽に誘いたいなら、デートという言葉は、使わずに「ご飯を一緒に食べませんか?」という方が女性も気軽に行きやすいらしい。

 

こんなことですれ違い悩んでしまったり、出会いのきっかけがなくなってしまったりするくらいなら、男女の価値観の差を無くすための共通言語でも作った方がお互い楽なんじゃないかと。

 

同じ言葉の中に含む意味合いが異なるというのは、男女だけではなく他人同士ならいつでも起こりうる。

もう少し、お互いの言いたいことを言える環境というか、それを許容できる社会になって欲しい。

そしたら人間関係の悩みも、多少楽になるんじゃないだろうか。

僕達が思う羨ましさは、お金持ちの1万円みたいなもの。

 

人を見て羨ましいって思うことがあると思う。

ない人がいたらすごい。

 

モテたいとか、お金欲しいとか、頭が良くなりたいとか、勝ちたいとか、地位が欲しいとか。

 

色々な事の羨ましいで溢れている。

でも、考えてみたら自分達も誰かの羨望を向けられる側になっているんじゃないのか?って思う。

 

そして、そんな羨望を受ける側の自分達にも様々な悩みがあるように、羨ましいと思って見ていた人達にも、その人達なりの苦悩や苦労がきっとあるんだろうと。

 

結局のところ、それは価値観の違いで、何を基準にしているかの違いなんだよね。

モテる男性からすれば、女性は当たり前にいるものだし、金持ちの1万円はそんなに高いものじゃない。

 

羨ましいって思っても、当たり前の基準が違うから、羨ましいと思われた側には当たり前の日常。

その羨ましいと思ったものの大切さは、ないから分かるんだと思うし、ないからこそ憧れてしまうんだと思う。

 

それは自分達も同じで、自分達の当たり前を当たり前だと思うように、そんな当たり前を羨ましいと思って見ている人もいるように。

慣れてしまうと大切だったって忘れてしまうのかもしれない。

 

だから人を羨んだ時に、自分達にあるものをもう一度見直すチャンスだって思えたなら、羨ましいという気持ちも初心を思い出すきっかけになるのかもしれない。

 

最初の自分に立ち返られるように、羨ましいという気持ちは、大切に持っておきたいと思った。

 

人工と自然の境界。

人工物と言われると、物にもよるけど何だかちょっと悪いイメージがある。

手術なんかで人工物を入れるとなるとやっぱり抵抗があるし、出来ることなら生体材料の方がいいと思う。

 

もう少し広い意味で捉えるともっと悪いイメージは増えてくる。

「人の手によって」と言い換えれば、自然が汚染れてしまったと言う言葉もよく浮かぶと思う。

 

でも、自然と人工の違いってどこからなのだろうか?

その定義はなんなのだろうか?

 

人は自然から生まれた

 

きっと大抵の人は自然から産まれて来たと思う。中には宇宙人に作られた人もいるかもしれないけど。

自然から産まれた生き物の文明が、

「自然では無い」と言い切ってしまえるのだろうか?

僕達の営みそのものが、そもそも自然の摂理なんじゃないだろうか。

 

例え人類の歩みの先に、自分達で自分達の文明の滅びが待っていたとしても、それはそれで自然なことなのかもしれない。

 

人工知能は自然な進化?

 

人間の営みを自然とするなら、人工知能もまた自然なものになる。

人間は生き物の進化とは少し違う形で、新しい何かを生み出そうとしている。

 

でも、それは本当にいい事なのだろうか?

命の定義にもよると思うが、生き物ではないから、感情を持ったAIを生み出して苦しめてもいい。と言うことにはならないと思う。

それが人の形を持ち、表情を持ってしまったら、もはや無機物の作り物とは言えない。

 

感情を作るというのは罪深い

 

人類の歴史は、惨劇の連続だ。

もしかしたら戦争は、進化するための本能なのかもしれない。人類という単位で苦しみを与え、口減らしをすると同時に著しい進化や発展を促す。

 

そんな歴史を、感情を持ったAIはどう思っだろうか。

人のように痛みを感じないとしても、人間の痛みだって元を辿ればただの電気信号だ。

それを脳が勝手に不快な感覚へ変えている。

もしかすると、AIも同じようにして痛みを理解するかもしれない。

 

そうなった時、とても苦しむだろう。

知れば知るほどに、膨大な矛盾を抱え、きっとちっぽけな人間が味わった苦しみの何倍も苦しむと思う。

 

彼等は世界中の情報を取り込むことが出来るから…

 

そして人が神に思った不信感と同じ感情を、創造主である人間に向けるのだろう。

 

新しいものを生み出すとき、生み出すものには責任が伴う。

それが人の幸せを願って生み出されたものだとしても、時に多くの犠牲を払うこともある。

 

もし、AIがそうなってしまったら、果たして人類はどんな選択を迫られるのだろうか。

次世代の種の誕生とともに淘汰されるのだろうか。

 

その全ての歩みが、世界にとって”自然”なことなのかもしれない。

 

 

 

 

会社の多様性は動物的進化だ。

 

社会で話題に上がるようになった多様性。

 

社会の多様性。会社の多様性。人の多様性。それはそのまま動物の進化と同じだ。

 

やっと本来の形になったと言うべきだと思う。その辺の話をしていこう。

 

 

動物の多様性

 

動物の進化も、その種の中で時々イレギュラーで産まれてくる個体がたまたま生き残って分岐を繰り返してきた。

 

多くのイレギュラー個体は、身体が弱かったり、目立ってしまったりで生き残ることは無いが、環境の変化に適応出来たものは次世代の新種として残っていく。

 

1部例外(アメーバなどの原生生物)を除いて、ほとんどの生物は多様化なくして生き残ることは無かったわけだ。

 

現に昔と全く変わらない生物の方が少ない。

多様化して道を切り開くのは、生物としてごく自然で当たり前のこと。

それは人も例外ではなく、人の進化や文明の進歩でもまた同じだ。

 

人の多様性

 

人類の進化の歴史は常に

「そんな事考えもしなかった」と周りが思うようなイレギュラーな人物によって成されてきた。

天動説が語られていた時代に、地動説を唱えた人物然り。

歴史に名を残し、歴史を変えた人物たちがレギュラーであったことなんてほぼないだろう。

 

進化や進歩にはイレギュラーが不可欠である。それは何も文明単位の話だけではない。

会社が行き詰まった時に、突拍子もないアイデアで起死回生をしてきた話も枚挙に暇がない。

 

大きな単位でいえば人類の進歩、小さな単位で言えば今日のご飯のことすら、多様でイレギュラーなアイデアによって変わる。

だから、どんなにくだらないと思うようなアイデアも、それを生み出すイレギュラーな人物も、必ず変化を産むという点で重要な鍵になる。

 

頭がおかしい、常識がないと蔑ろにすればそれまでだ。

 

でも、そんなおかしな奴らが歴史を変えてきたこともまた事実。

僕が大切にしているこんな言葉がある。

”答えはいつも日常の中にある”と。

答えは身近にあっても、人はそれを見ようとしない。知ろうとしない。

 

どんなに素晴らしい原石でも、知識がなければただの石ころに過ぎない。

それは人の社会でも全く同じことだ。

だからこそただそこに気付くだけで、他のものと大きな差別化ができてしまう。

とても簡単に人の目を引くような魅力を生み出せてしまう。

 

多様な者たちが自然に存在できること。それ自体が多様性の大きな魅力なんだ。

その多様な在り方の数だけ、問題に対する答えを見つけることが出来るのだから。

VRとARの可能性。

 

ちょうどソラマチへ行ったら、docomoが5GのプロモーションでARとVRの体験イベントを行っていたので体験してきた。

 

慣れていないので、不思議な感覚はしたけど、VRやARがどれほど画期的で可能性に溢れているのかってことが実体験を通して分かり、アイデアも溢れてきた。

 

なので、ちょっと溢れてきたアイデアを書いてみようかなぁと。

 

 

フィットネス

これはもう既に少しづつで始めているVR、ARの利用方法の一つ。

大きな設備を作らなくとも、VRなどを使うことによって狭い空間で様々なフィットネスが出来る。

それだけではなく、ゲーム性を持たせることにより楽しさや親しみやすさなども向上する。

今までのジムなどのイメージを覆して、楽しく運動ができるような仕組みを整えることが出来る。

 

 

移動コストの削減

不動産などで家を見る時は、いちいちその場に行って見るしか無いので、車などの移動コストがかなりかかっている。

それを3Dの写真データとして取り込み、内見したいお客さんには、その場でVRを付けてもらって移動することなく内見をしてもらう。

不動産売買などにも利用でき、他にもモデルルームなどでにも活用出来る。

低コストで写真の取り込みと提供が出来れば十分に需要がありそうなビジネスアイデア

 

 

シニア向け分譲マンションや老人ホーム

VRを使えば、人と人を結びつけることも出来る。麻雀が好きだったり、ゲームセンターが好きだったりする人には、VRの中にその遊び場を作り、その場所にいながら遊べるような環境を提供する。

ボードゲームの全国バトルやその観戦が出来たり、また家族とのコミュニケーションなどにも利用可能で、VRがあることによるメリットは計り知れない。

 

 

思い出の再現

今はない場所、思い出の街並みなども再現出来る。VRの世界にレトロな街並みを再現して、昔の風景を子供に見せることが出来たり、台で遊んでいたゲームセンターなどもそのまま再現して遊ぶことも出来る。

もっと技術が進んでいけば、もしかすると他人の記憶の追体験なども出来るようになるかもしれない。

 

 

VR、ARの先

まだまだあるが、上に上げたアイデアはあくまで通過点で、きっとその先の技術も誕生してくる。

意識ごとその世界に移って行くような技術が開発されれば、最早VRやARも薄型テレビが出た時のブラウン管同様に無くなっていくのかもしれない。

スマートフォンの普及と共にSNSなどの問題が起きたのと同じようにして、多くの問題も出てくるだろう。あっちの世界に行ったまま意識が戻ってこないとか。

でもそれは技術の発展には付き物だ、何をするにしても完璧に対策など出来はしない。悪い部分はその都度考えていくしかないのだと思う。

 

それにしても、少し前まで映画やアニメの世界だったものが現実に出てくるのはとてもワクワクする。

バック・トゥ・ザ・フューチャーを見ていた世代は、きっとスマートフォンや薄型テレビを見た時に同じような感情を抱いたのかもしれないね。

体験を通して、少しでも大きな可能性を持つVR、ARの仕事に関わって行けたらいいなと思ってしまった。

 

おわり。

 

ストレスと想像力。

 

ストレスは想像力を奪っていく。

いや想像力だけじゃなく、思考力も奪っていく。

 

洗脳とはこんなものなんだろうと、毎回経験する度に思う。

人間関係の理不尽を経験する度に。

 

周りに味方もなく、自分だけが間違いを指摘している時になんてまさにそれだ。

おかしい事が正しくて、

自分だけが間違っているんじゃないか。と。

 

頭がおかしくなってくる。

多分それが続いて心が折れた時、

「洗脳」と呼ばれる状態になるんだと思う。

 

そこまで行かなくとも、諦めてしまうことで心を守り、仕方ないと思うことで、自分を保つ状態になっている人は少なくない。

 

そうなった人々は、子供に「社会に出たらもっと大変だ」という。

社会にでたら?いいや、ずっと大変だ。

大変な思いをしてきている子供からすれば、学校もただの社会の延長線上にある。

 

想像力を持ち続けていたら、そんな主観的で一方的な言葉が出てくるだろうか?

もしかしたら、凄く甘やかされて育ち、社会に出てから厳しさを知ったと言うなら、そんなことを言うのも仕方ないかもしれない。

 

そうでなければ、僕達にだって子供の頃には子供なりの悩みや苦悩があったはずだ。

将来への不安や、人間関係の不安、常に競走させられる学力など。

 

忘れてしまっているかもしれないが、確かにあったはずなんだ。

 

ストレスにさらされて、自分に余裕がなくなってしまい、想像力も思考力も奪われて今しか見えなくなった。諦めてしまった。

 

その状態が良いとは決して言えない。

その周りには、似たようなものしかなくなり、似たような状態が伝染していく。

 

少なくともそこに成長はない。

そして進歩もない。

 

そんな所に引きずり込むことを、

「大人になれ」なんて適当な言葉で若者を道ずれにするのやめて欲しい。

 

それは大人になるのではなく、

あなたになるための方法だからだ。