自分にとって価値があるのかは、物事を数値化して考える。
僕はよく人にものを説明する時に数値化することがある。
そのやり方が正しいかどうかは別としても、”自分にとってはこういう価値基準です”ということは伝わる。
数値化して説明すると分かりやすくなるし、
自分にとってもそれは指標になる。
1つの考え方として見て貰えたらいいなと思う。
オシャレの数値化
僕にとってオシャレは、あまり高い価値を持っていない。
それは何故か?早速数値化してみよう。
例えば、イケメンと呼ばれる人が10の努力をしたとする。
※10の努力は、服にお金をかけるとかをざっくりと数値化したもの
10の努力で、魅力が100上がるとする。
※100の魅力も印象をざっくり数値化したもの。
90の効果が得らるれたわけだ。
でも、僕はイケメンという部類ではない。
僕が10の努力をしても、魅力が15くらいにしかならないと、得られた効果は5だ。
同じ努力に対して得られるものが少ないのなら、それはする価値がないと判断する。
これが物事を数値化するということ。
優秀なリーダーと、仕事が出来るだけのリーダーを数値化
仕事が出来るリーダーが、自分の仕事を100こなせるとする。だが、後輩5人の能力を伸ばせず彼らは1人30の能力しか出せない。
そうすると、チームとしての仕事の能力合計値は250となる。
これに対して、優秀なリーダーは自分の仕事を60しかこなせないとする。でも、後輩5人の育成が上手く、彼らは1人80の能力を身につけた。
チームとしての仕事の能力合計は460となる。
1人の仕事が出来る人間よりも、複数人そこそこ優秀な人間を育てることが出来るリーダーの方が優秀となる。
こんな風に物事を数値化することによって、何故そうするのか?という疑問をしっかり説明できるようになる。
特に日本の企業は漠然と行っている無駄が多いので、この作業で減らせる無駄の量は相当なものだと思う。
最後に得意と不得意を数値化してみる
人の能力の平均値をざっくりと出して、50とし、自分の能力をそれに合わせて数値化してみる。
自分が出来ることが平均より上であれば、時間をかける価値があり、そうでなければ意味が無いとしてみる。
そうすることで人より多少得意で伸ばすべき能力が分かりやすくなるし、無駄な部分に時間をかけずに住むようになる。
良く悪い部分を治せという人がいるけど、それは本人が悪いと思い治したい意欲があれば、意味があるのかもしれない。
でも大抵は本人にとってそれを変えることにはあまり価値がなかったりするし、変えることが出来ないものだったりもする。
そんなところに時間をかけて、数値化平均化することを頑張っても、さほど評価はされない。
ならば出来ないことは出来ないと割り切って、できることを伸ばした方が圧倒的に魅力的な人間になる。
そもそも人はある意味善し悪しのバラスによって個性があるようなものなので、そこを無くしてしまうのはマイナスでしかないと思っている。
もしも本人がどうしても望むのならば、それを否定はしないけど、基本的に自然体でいられることの方が僕は重要なんじゃないかと思う。
最後に
このように数値化することで見えてくるものがあるので、身の回りのものを置き換えてみると思考が深まるかもしれない。
買い物で迷った時なんかは特にオススメ。
数値化を値段に置き換えて、ルール付けをしておくこと無駄な買い物を無くすことも出来たりする。
節約思考を利用して、人生のコスパを考える。
そんな僕のユニークな思考法でした。
本屋には誰かの答えが置いてある。
本屋に行くとワクワクする。
知識を増やしたいという欲には終わりがない。
表紙を見るだけでその本の内容が気になってくる。
どれもこれも目を引くものばかり。
それは誰かの人生から導かれた答えだからだと思う。
本に書いてあることは、必ずしもその人にとっていい事だとは限らない。
真逆のことを書いてる本は探せばいくらでもある。
それで「どれもこれも信用出来ない」と考えてしまうのは間違いだ。
各本に書かれていることは、その本を書いた人にとっては紛れもなく正解だったんだろうから。(中には嘘もあるだろうけど。)
だから全部、”誰かの人生の答え”だと思って見るのがそもそも正しい。
そう分かっているからこそ、本にワクワクする。
他人の人生がどんな選択をして、どんな答えにたどり着いたのか。
そこには可能性を感じさせてくれる何かがある。
だから本は面白い。
希望にもなるし、救いにもなる。
こんな生き方があってもいい。
こんなやり方があってもいい。
常識に囚われるな。
そもそも常識というものはなんなのか。
そんなありとあらゆる物事への意見が聞ける。
何百年たっても消えていない物にはそれだけの理由があるんだろうね。
だから、もっと読書を楽しんで。
僕は自己啓発や、ビジネス書が好きだけど、どんな本にもその本の良さがあるし、好みによっても読みたいものは変わる。
本は本というジャンルではあるけれど、それは情報の入口の名前で、インターネットみたいなものだから。
どう利用するかが肝心だ。
”知っている”から”どう使う”に変わっていく時代。
全てにおいて使い方が重視される。
どう上手く利用するか。
言い方は悪いけど、自分の能力も人の能力も、誰かの経験も、本の知識も、苦手なことも、ダメな自分も全てはどう利用するかだ。
全てが全てエンターテインメント。
そんな風に思えると、
本屋に行くだけで夢を見られるようになる。
その先にいる人の顔まで想像出来たら、遊園地になるよ!
是非、本を通して世界を見て見てね!
これが僕の答え!僕の楽しみ方です!
試食コーナーから考えるマーケティング。
スーパーには様々なマーケティングが隠れている。
入口から出口まで、人の動きを計算して作られたルート。
どのスーパーも右回りの場合が多いのはこのため。
そんな中で気になったのは、試食コーナー。
特に人が注目するそのコーナーのマーケティングに着いて考えてみた。
試食のプレッシャー
試食コーナーに人がいると、試食をしづらい。それはなぜかと言えば、買わなければいけないというプレッシャーがあるから。
何かをしてもらったら何かをしないといけないという気持ちになる。
特に日本人はそういう気持ちが強いのかもしれない。
それを利用してたった一つの商品を買わせたところで、さほどの売上にもならないし、口に合わずに買ってしまえば、悪いイメージがつきやすい。
その場限りで終わりのマーケティングでは、リピーターは作れない。
あるアウトレットに行った時物産展のようなイベントを開催していて、そこで試食を勧てるおばさんがいた。
ただ、食べたあとに押し売りのごとくこれどう?あれどう?安いからとガンガン勧めてくる。
それを見ていた周りの人は試食にすら寄り付かなくなった。
試食の意味を履き違えた結果だろう。
試食の目的は、”味を知ってもらうこと”であって、食べたから買えと迫ることではない。
そこを分かっていないとむしろ逆効果になる。
そんことになるくらいなら、やらない方が断然マシだ。
買ってもらうにはどうすればいい?
買ってもらえる試食コーナーを作るなら、
”買わせようとしない”こと。
買うか買わないかを選ぶのはお客さんであってこちらではない。
どれだけ選択肢を増やすか?が勝負になる。
それに加えて、話しやすかったり、近ずきやすい雰囲気を持っていたりする人だと、その人だから買っていこうと思われたりもする。
スーパーなどの人と人の距離が近い場合、最終的には”人が喜ぶこと”こそ最も効果のあるマーケティングになる。
「自分がどうしてもらったら商品を買いたくなるのか?」を客観的に見ていられれば、きっと気がつくことだと思う。
心理学に則ったマーケティング手法も手段の1つだが、やはり人が喜ぶというのは何にも勝るもの。
どちらかではなく、どちらも兼ね備えて初めてマーケティングは結果に繋がるのだろう。
ただし、心理的手法と、人を喜ばせることの割合は場合と状況によって大きく変わるので、それは十分に分析する必要がありそうだ。
今の時代だから生まれた凡人故のチャンス
YouTuberという人達がとても稼いでいることを知っているだろうか。
でもその一方で稼げていない人達も山ほどいる。
その違いはなんなのだろうか?
どうすれば人は見たがるのだろうか?
その一つの答えになるのが今回題名にもなっている、”凡人故のチャンス”だ。
凡人であることに価値がある
「何を言ってるんだ?」と思う人も多いと思う。
凡人じゃ人は見ないと非難されそうだ。
でも、ある映画監督がこんなことを言っていた。
「どんな人間の人生だってつまらないことなんてない。自分と違うと言うだけで十分面白い映画になる。」と。(そんなニュアンス)
人は自分が思っている以上に、人を気にして生きている。
あの綺麗な人の日常は?
ダサいあいつのすごい特技は?
驚くような転落人生
夢のような逆転人生
人は気になっている。
自分とは違う在り方を。
嫉妬も、憧れも、全部がエンターテイメント。
だけどそれだけじゃない。
凡人である人々の暮らしだって最早ひとつのエンターテインメントになっている。
一緒にご飯を食べているような気にさせる動画や、日々の生活をただ見せてくれる動画。
そんなものが、人の支えになったりする。
「自分だけじゃないんだ」という共感は、簡単に繋がれて、でもその繋がりが希薄になってしまった現代だからこそ、大きな価値があるんだ。
一人暮らしをしているとよく思う。
「寂しい」と。「人の声が聞きたい。」と。
でも、そんな時恋人も家族もいない人だったら、一体誰を頼ればいいのだろうか。
そこを埋めてくれるのが”共感”というコンテンツだ。
凡人であるからこそ、自分に近い人間だと分かるからこそ、寂しさを持つ人々に何度も見られるような動画になったりする。
僕が一つ答えを出すとしたらそれは、
”誰かが見たいと思うものは、自分が見たいと思うものだ。”
ということ。
まだまだ答えはいくつもあって、これからも増えていくだろうけど、人に必要とされるもは必ず誰かが必要としている。
当たり前のことだけど。
その誰かが自分であるかもしれないし、友達かもしれないし、家族かもしれない。
でも、チャンスとヒントは、どこにでも落ちているからね。
それは誰の日常でも同じことだよ。
おわり。
汚い家の大きなデメリット。
汚い家には、もちろん「汚い」というデメリットがある。
でも、それだけじゃなく、
現代にはもっと大きなデメリットがあることに気づいたので紹介してみたい。
子供の人間関係に影響する
家が汚いと少なからず子供の人間関係に害を及ぼすことになる。
親がそれを恥ずかしいと思っていれば、家に人を呼ぶのが億劫になる。
そうすると子供達が気を使ってしまい友達を呼べなくなったり、それによってあまり友達と関われなくなったりしてしまう。
逆に親がオープンな気質の人でも、遊びに来た友達が汚いと思えば、学校でのいじめに繋がったりもするので、綺麗にこしたことはない。
不思議と人をよく呼ぶ家は綺麗な傾向にあるような気がするので、人の目に触れさせると言うような保ち方もある。
現代だと家族の状況をモニタリングしてYouTubeに流すとかでもその効果は得られそうだ。
お金が稼げる可能性が減る
これは以外かもしれないが、現代において家が汚いと言うことは、お金を稼ぐチャンスさえ奪ってしまうことになる。
上でも少し出したYouTubeなどのソーシャルメディアで、動画配信などをする場合、家がそもそも綺麗ならば撮影場所に困らないが、そうでなければいちいちその場所確保や掃除など手間が増え、始めること自体が億劫になってしまう。
つまり、もしかしたら人気者になって稼げたかもしれないチャンスをみすみす逃すことになってしまう。
他にもフリマサイトの出品などでも、写真の撮り場所に困ったりもする。
可能性が奪われるというのは、とても大きなデメリットだと思う。
ものを探す手間が増える。
物を探す手間がめちゃくちゃ増える。
探すこと自体、時間の無駄でもあり、いちいち労力を使うことも無駄である。
そしてどこにいったかわからなくなり、同じものを買ってきてしまい、無駄な出費が増え散財に繋がっていく。
塵も積もれば山となるで、人生で考えて計算をしてみるとその時間の多さがわかる。
いかになんの価値もないことに時間を費やしたのかも分かるだろう。
その損失の大きさは計り知れない。
まとめ
このように、家が汚いことに対するデメリットは数多くある。
他にも気管支系の病気になる可能性が上がったり、物が汚れれば壊れる確率も上がるので、物を買い換える頻度も上がったりする。
全体的に生活コストが上昇し、さらにお金が増える機会を奪い、無駄な時間が増える。
どれだけ大きなデメリットがあるのか分かっていただけただろうか?
これは、僕自身の実家の体験談も含まれているので、決して予測だけで言っていることでない。
これから家を建てる人、家族との生活が始まる人には、是非とも知っていて欲しいと思う。
あとで、このようなデメリットを回避するためのお話も書こうと思っているので、また見に来ていただければ幸いだ。
僕が思うリーダー像。
昔のリーダーと言えば、カリスマ性で引っ張っていくような、そんなリーダー像だったと思う。
でも、僕が思う成りたい、ついて行きたいリーダーというのは、ワンマンで引っ張って行くようなリーダーじゃない。
思わず肩を貸してやりたくなるような。
思わず手を引いてやりたくなるような。
どこか頼りなくて、それでも仲間の幸せを願っている。
そんなリーダーだ。
この先、人のする仕事の種類は減っていくと思うし、AIやロボットの発達によって誰でも出来る仕事は消えていく。
そんな中で素晴らしい人材と呼べる人達は、どんな人の元に集まるだろうか。
もし僕が素晴らしい人材だったとしたら、きっと偉そうで強そうなリーダーでの元には行かない。
誰よりも弱さを知っていて、そして誰よりも優しいリーダーの元で、そんなリーダーを支えたくなるだろう。
「お前の変わりはいくらでもいる」じゃなくて、
「俺がいてやらないとダメだな」って思わせてくれたら、それは最高の自尊心だ。
自分を必要としてくれる人の傍に居たいと思うのは必然だ。
人の魅力が、そのまま会社の魅力になる。
そういう小さなコミニュニティのような会社が増えていく気がする。
小さく強く。ちゃんと目が届く会社。
大きくするこだけが道じゃないよね。
出来れば僕もそんな会社を作りたいと思う。
そして、「日本一社員が幸せな会社」ってのを作ってみたい。
社員のみんなが、自分の会社のことを大好きだったら、やる気を出せとかノルマをクリアしろとか言わなくても業績は上がると思う!居心地のいい会社を潰したい人間は少ないだろうしね(´ー`)
いつになるかは分からないけど、ずっとその夢は持っていようと思う。
目指すは、”誰よりも弱いリーダー!”だっ!
押してダメなら引いてみろと、物事における足し算引き算は似たようなことを言っている。
「押してダメなら引いてみろ。」
恋愛のテクニックみたいなものでよく聞くような気がするけど、僕の場合は扉の話だ。
押してダメなら引いてみろって、その通りというか、当たり前のことなんだけど、不思議とそれが「物事における足し引き」と置き換えられると分かってない人が増える。
例えば、和食のように「引き算の料理」の意味を分かってない人は多い。
「料理してるんだから色々と足している」と言われたことがあるけど、まさにそれは理解してない人の言葉だと思う。
料理における足し引きとは、食材の味をどう現すかという部分であって、単純な食材の足し引きとは違う。
和食と他の料理を比べた時に、和食以外の料理は、基本多くの食材の味を混ぜ合わせて高める事が当たり前だ。
でも、和食は食材を増やすのではなく、食材を少数に絞り、それをどう引き立てるかというところに重きを置く。
そのために、仕込みに時間をかけたり道具の手入れを惜しまない。全ては食材を引き立てる為に、雑味を無駄を省くということに特化しているから。
そんなふうに、物事における「足し引き」というのは、見方によっては引いていても足しているように見えたり、足していても実際は引いているというように見える。
それは”どの視点で見ているか”の違いなんだ。
最初に出した「押してダメなら引いてみろ」は、恋愛に例えると「行動を引く」をストレートに行っているように見えるが、視点を気持ちに当てると、相手の気持ちを引き立てるというある意味の「足し算」をしている。
色々な物事に当てはめて考えると、
少し違った発見やアイデアが見つかるかもしれない。
そして僕は今日も、引き戸を押して
「あれ?開かない」を繰り返す…