「出来ない」が許されない社会。
「出来ない」
この一言が、とても言いづらい。
大人になればなるほど、
「逃げだ」「甘えだ」と勝手に言われるようなる。
他人は勝手だから、なんとでも言える。
どんな思いかも、どんな理由かも知らずに分かったように下らない文言を吐く。
言った言葉に責任を感じたりはしないような人間ほど、簡単に決めつける。
でも、それは間違っている。
「出来ない」ことは出来ない。
出来ないことは出来ない。
それは人間である以上、そうなのだ。
出来ないことが、
「知らない」から出来ないのか、
「苦手」だから出来ないのか、
その違いはとても大きい。
知らないだけなら、知ることでできるようになる。
まだ経験が浅いだけ。
まだ慣れていないだけ。
それならいずれできるようになるし、
それは出来ない訳では無い。
算数だって最初は難しくて、小さな数の計算から始まって、どんどん大きな数になっていく。
初めから2桁の足し算は難しいし、掛け算はできなかったはずだ。
それは、知らなかっただけなんだ。
だけど出来ないは違う。
出来ないことは出来ないのだ。
それがどんなに簡単であったとしても、それが出来ない人間は確かにいる。
何年も、何十年も掛ければ出来るようになるかもしれないが、それはその人のためにはならないし、大きな人生のロスになる。
さっきのように算数で例えるなら、
数字が理解出来ない子もいるということだ。
1+1は2。これを「そうか」と納得出来ない人間もいる。
コップに入った水をもう片方のコップの水に入れると、2つを足したのに2では無く1になったと考えてしまう子だ。
この子は単純な計算に辿り着く過程を知らなければ、その先に行けない。
ある意味では頭が良すぎるのだ。
この例から言えることは、
出来る出来ないには理由があり、それは人それぞれ違うということ。
常にコミュニケーションの必要性は、どんな場合や状況でも、やっぱりついてまわるものなんだ。
理由も聞かずに否定することはまさしく、
「コミュニケーションを取ることが出来ない」と言えるだろうね。
「出来ること」を伸ばす。
できないことは出来ない。
どうしても出来ないなら、それはできないと諦める。
何も、それが生活の全てでそれをしなければ死んでしまう訳では無いだろう。
もし命に関わることならば、人生を賭して成し遂げるしかないけれども。
大抵のことはそこまで重要じゃない。
だったら出来ないと素直に認めて、諦めるしかない。
仕事でもそうだ。
「出来ない」という言葉は一見無責任に見えるかもしれないが、そうではない。
逆に、出来もしないのに「出来る」と言っている人間の方がよほど無責任なんだ。
周りが認めた挑戦なら分かるが、出来もしないことを出来ると言えば、その出来なかった分を周りが支えなければいけない。
自分も大変な上に、周りにも迷惑をかける。
それを「責任感がある」などとは到底言えないだろう。
出来ないことは出来ないと認めた上で、出来ることを伸ばすしかないのだ。
自分を偽れば、苦しいだけではなく、周りにも迷惑をかける。
わざわざ嫌な思いをする必要は無いんだよ。
「出来ない」ことは悪いことじゃない。
出来ないことは、何も悪いことじゃない。
何もかも全員ができるなら、個性なんてものはないのだから。
何かが出来ないなら、何かが出来ないということを知っている。
その人の気持ちを理解してあげられる。
それだって立派な「出来る」ことであり、
個性だ。
人は、
出来ないことがあるから考えるし
出来ないことがあるから工夫をする。
それを否定することは、御先祖への侮辱だ。
今の世の中にある便利な物事は、全部昔の人々が大変な思いをし、その都度考え工夫した結果なし得たものなのだから。
出来なければ出来る人に任せ、
出来なければ出来るように道具を作る。
そうやって、
出来ることと、出来ないことをお互いが支え合うことによって人は前に進むんだ。
そんなことも忘れた人間が、
一丁前に大人を気取っている。
貴方に問おう。
"考えることは出来ているのか?"と。
答えは自分で分かっていると思う。
分かることが出来たなら、
貴方はまだ成長出来るよ。
ではまた。